ブックタイトル月刊田中けん

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概要

月刊田中けん

ロシア・クリミア・日本について3月27日(木)東京大地塾(鈴木宗男氏の主催)が開かれました。そこで話された佐藤優氏の発言の主旨を変えずに、情報を補足編集して記載しています。佐藤優クリミアには元々、ジンギスカンの末裔達がかつて大きな国を持って住んでいた。その頃はまだロシア人、ウクライナ人という民族意識はなかった。ジンギスカンの末裔達は、ウクライナ住民を拉致しては、奴隷としてペルシャやアラブ諸国に売ったりして生活していた。当時のモンゴル人にとって、人や家畜や農産物を略奪するなどは、ごく普通のことだった。モンゴル人たちの略奪が激しかったので、クリミアは人が住まない土地になってしまった。そこへ後からとんでんへいコサックと呼ばれる屯田兵(土地の開拓と警備を行う兵士)がやって来た。彼らは畑を耕し農業をしながら、武装もしている清教徒だった。1654年コサックが、モスひごクワ公国と協定を結んで、モスクワ公国の庇護下に入った。その後クリミアはロシアに占領された。1930年代にスターリンが農業集団化を行う。ウクライナで私有地を持つ自作農たちがソビエト政府に反対した。1932年にホロモドールと呼ばれる大飢饉が起きた。飢饉が起きてもなお、外貨獲得の輸出品として小麦は過剰に取り立てられ、農家には充分な小麦が残らなかった。この政策は自作農を敵視するスターリンによる人災、大虐殺だと認識されている。一説には400万人が死亡した。当時の残酷なエピソードとしては、食べる物がなく、人肉を食べていたという。人肉を吊し売りしていた当時の写真が、ペレストロイカ時代に出回った。1944年第二次世界大戦になってくるとクリミアにナチスが入ってきた。そうなるとクリミアの先住民族が、ナチスと連携して、ロシアからクリミアを引き離そうと画策した。当時30万人のウクライナ人がナチス側についた。ソ連側についたウクライナ人は200万人。ウクライナ人の約1/6はナチス側。たちは、見つけ出されて皆殺しにされた。クリミアからクリミア・タタール人を完全に追い出した後、ロシア人が入植してきた。今回のウクライナにおける政変をロシアでは「ファシストが権力を握った」と報道している。これは昔、ナチスを支持していたウクライナ人が政権を取ったとロシア人が理解しているため。確かに彼らには反ユダヤ的な要素があり危険でもある。今のウクライナ人が反ロシア感情を持つ理由は3つある。第1にウクライナの大飢饉。第2に第二次世界大戦で同朋が多数犠牲になった。第3にチェルノブイリ原発事故によって、環境的にも財政的にも重荷を背負わされた。1952年スターリン死亡。反ロシア感情が強いウクライナをしっかりロシア側に留め置くための政策が行われた。1954年クリミア半島はロシアからウクライナに移管された。これはウクライナ出身のフルシチョフ第1書記による独断だった。クリミア周辺には高級リゾートがたくさんある。有名なのはヤルタ。もう一つはソチ。ロシア人は2ヶ月間休んでリゾート生活をする。施設の利権がウクライナの共産党幹部に移ることは、ウクラかいじゅうさくイナの懐柔策として効果があり、それがロシアのメリットとなった。1956年にソ連共産党第20回大会にて、フルシチョフがスターリン批判をした。第二次世界大戦中に、チェチェン人、イングーシ人、カルムイキア人に対ナチス協力民族とのレッテルを貼って強制追放したのはスターリンの間違いだった。民族全体が敵と協力するなどありえない。「元の土地に帰して権利を回復させる」と言って、事実そうなった。しかし、クリミア・タタール人は一切無視された。故にクリミア・タタール人を中央アジアに追放した事実はソ連でなかったことにされている。それでもクリミア・タタール人は、1960年代後半から、果敢にクリミアに戻ってこようとしていた。ソ連政府は彼らを見つけ次第、中央アジアに戻していた。その時になると殺すことはなかった。2しかし民族の一部がナチスを支持したという事実から、スターリンは、先住民族であるクリミア・タタール人全体に、ナチス協力民族というレッテルを貼った。これを理由に、彼らは中央アジア=ウズベキスタンへ強制移住させられる。貨車に詰め込まれて、彼らに水や食料はまともに与えられなかった。子どもや妊婦は、ほとんど死んだ。クリミアに残りたいと隠れていた人結局、クリミア・タタール人問題をしっかりと認めて、クリミアへの帰還を認めたのはゴルバチョフだった。その後、案の定クリミアでは土地の取り合いで民族対立が激化した。だから、同じウクライナ内であってもクリミアだけは別で、ロシア人とウクライナ人は仲良く共闘して、クリミア・タタール人と対立している基本図式になっている。(3ページへ)